― 立川のワンオペ料理人が感じる、あなたは、どこまで知りたいですか ー
あなたは、鹿が撃たれた瞬間の音を知っていますか。
乾いた破裂音のあと、山に短い静寂が落ちる。
そして、数秒遅れて聞こえる、落ち葉を踏みしめる重たい音。
多くの人は、その音を知らない。
知らなくても、困らない。
皿の上には、美しく整えられたロース肉が載っているからだ。
ジビエを出す店として、私はいつも考える。
お客様は、どこまで知るべきなのだろうか。
1. 「美味しい」で終わらせるという優しさ
店でジビエを出すと、よく言われる。
「全然臭くないですね」
「思っていたより食べやすい」
「これならまた食べたい」
それは、料理人としては最高の言葉だ。
だが同時に、胸の奥で小さな違和感が残る。
この肉は、撃たれた。
山の斜面で、血を流し、重い体を運ばれ、
処理場で解体され、冷やされ、整えられ、
やっとここに辿り着いた。
その工程を、私は知っている。
だが、目の前の人は知らない。
そして、その方が幸せなのかもしれない。
「美味しい」で終わらせることは、
ある種の優しさだ。
けれど、それでいいのだろうか。
2. 語りすぎると、料理は遠ざかる
以前、コースの途中でこう話したことがある。
「この鹿は、5日前の朝に撃たれた個体で、
2時間以内に内臓処理されています。」
すると、テーブルの空気が一瞬だけ止まった。
フォークがわずかに遅れる。
ワインを持つ手が、少し止まる。
事実を伝えただけだ。
だが、料理の距離が急に縮まった。
“肉”が“個体”になった瞬間だ。
そのとき私は思った。
語ることは、必ずしもプラスではない。
知るということは、
ときに食欲を奪う。
3. それでも、隠したくはない
だが一方で、
私はすべてを隠したくはない。
ジビエは工場で生まれたものではない。
自然の中で、命として存在していた。
撃つ人がいる。
運ぶ人がいる。
解体する人がいる。
そのバトンの最後に、私がいる。
もしその背景を一切語らず、
ただ“おしゃれな一皿”として出すなら、
それは少し嘘になる気がする。
だから私は、全部ではなく、
“少しだけ”話す。
山の話を。
処理場の話を。
脂の違いの話を。
血の量や、倒れた瞬間の音までは語らない。
だが、命だったことは、忘れない。
4. 食べる側の責任、という重たい言葉
よく言われる。
「命をいただくってことですよね。」
だが、その言葉はとても重い。
食べる側に“責任”を求めるのは、
私は少し違うと思っている。
責任を感じながら食事をする人は少ない。
感じなくてもいい。
だが、無関心ではいてほしくない。
「どうやってここまで来たのか」
その問いを、ほんの少し持つだけでいい。
知ることは義務ではない。
だが、知る機会があるなら、
私はそれを閉ざしたくない。
5. ワインを語る理由
だから私は、ワインの話をする。
なぜニュー・ワールドなのか。
なぜこの鹿にはこの酸なのか。
なぜ猪にはこの果実味なのか。
ワインは“橋”になる。
命の重さを、
味わいの話へと翻訳してくれる。
血の話ではなく、
ワインの話に変える。
撃つ話ではなく、
火入れの話に変える。
それは、逃げではない。
伝え方の選択だ。
6. あなたは、どこまで知りたいですか
すべてを知りたい人もいる。
何も知らずに楽しみたい人もいる。
どちらも正しい。
私は、その間に立っている。
包丁と銃のあいだで。
語りすぎれば遠ざかる。
語らなければ薄くなる。
その線を、毎晩探している。
7. 最後に残るもの
料理を食べ終え、
ワインが空になり、
「美味しかった」と言われる。
その言葉の奥に、
ほんの少しだけ、
“知っている感覚”が残っていればいい。
鹿が走っていた山を、
一瞬だけ想像するような。
それで十分だ。
終わりに
ジビエは、特別な料理ではない。
だが、背景がある料理だ。
あなたは、どこまで知りたいですか。
すべてを語る必要はない。
けれど、何も知らずに終わるのも、
少しもったいない。
私は今日も、
その距離を測りながら皿を出す。