― 立川のワンオペ料理人が見た、“狩猟から料理まで”という無理筋の現実 ―

2025/10/27 ブログ
logo

店主が想像した物語


序章 厨房の片隅から、山を夢見て

立川の夜。
カウンターの向こうで、最後の客がワインを飲み干した。
皿を下げ、シンクに立つと、湯気があがる。
手は荒れ、背中は痛い。
それでも、どこか満たされている。

この店「モリノナカ」を始めて数年。
ひとりで仕込み、ひとりで接客し、ひとりで皿を洗う。
営業が終わると、SNSには「立川でジビエが食べられる店」と書かれる。
でも、心のどこかで引っかかっていた。

「この肉は、本当に自分の“料理”といえるのか?」

狩猟免許を取れば、
自分で獲った肉を、自分の店で出せる。
そう思っていた。
だが、その考えがどれほど甘いものだったかを、
後で嫌というほど思い知らされる。


第一章 狩猟免許――扉を開くための紙切れ

狩猟には三種類の免許がある。

  • 網猟免許

  • わな猟免許

  • 銃猟免許

ジビエを得るには、主に後二つ。
特に銃猟は講習からが長い。

試験費用は、東京都で約6,800円
初心者講習は約12,000円
合格しても、猟銃所持許可に進むには、

  • 身辺調査(警察)

  • 精神科診断書(約5,000円)

  • 火薬保管庫設置(約30,000円)

  • 銃保管庫(約25,000円)

  • 猟銃本体(中古で約100,000〜200,000円)

  • 弾薬(50発で約5,000円)

初期費用だけで25〜40万円
そこに猟友会入会金 約10,000円、年会費 約10,000円、
狩猟者登録費 約16,500円

シーズンごとに保険や弾薬代もかかる。

「鹿一頭撃つのに、ここまでお金かかるの?」
そう思った瞬間、すでに“趣味”ではない。
だが、もう引き返せない。

40代。
体力も落ちてきた。
でも、厨房で一日立ちっぱなしに比べたら、
山を歩くことなんて“リフレッシュ”だと思っていた。
甘かった。


第二章 山に入るという現実

夜明け前、奥多摩の山。
車を停めて、ザックを背負う。
鉄砲、弾、双眼鏡、無線、ナイフ、ロープ、GPS、ポリタンク。
全部合わせて装備重量は約15kg

雪が残る斜面を登りながら、
息が上がる。
心臓が鳴る。
40代の体は思っている以上に正直だ。

山道は舗装されていない。
岩、落ち葉、ぬかるみ。
一歩間違えれば滑落。
実際、毎年数十人の猟師が転倒や滑落で負傷している。
救助ヘリが出動することもある。

そして、撃つ瞬間の集中力。
息を止め、照準を合わせる。
引き金を引いた瞬間、世界が止まる。
音のあとに、静寂。
胸の中に、何かが沈む。

獲物が動かなくなったあと、
そこにあるのは、現実だ。
血。体温。匂い。
「これが命を食べるということか」と思う。

しかし、ここからが本当の始まりだ。
重さ50kgの鹿を担いで、山を下る。
滑る。転ぶ。
腰にくる。膝が笑う。
体力の限界を超えた時、初めて「山に入る怖さ」を知る。


第三章 命を持ち帰るコスト

捕獲後、2時間以内に冷却を開始しなければならない。
体温が残ると菌が繁殖し、食肉にならない。
つまり、すぐに搬出して、冷蔵車で処理場へ運ぶ必要がある。

だが、立川のような都市部には処理施設がほとんどない。
山梨や長野の処理場まで持ち込むとして、
ガソリン代、冷却剤、時間。

鹿一頭運ぶのに往復100km・燃料2,000円・高速代1,000円・時間4時間
しかも処理費用が1頭あたり約3,000〜5,000円
皮を剥ぎ、枝肉にしてもらい、
許可のある食肉として戻るのは数日後。

冷蔵・冷凍保管の電気代、車の維持費を含めると、
1頭を「合法的に」自店で出すまでに1万円以上の実コストがかかる。
市場で買う鹿肉の倍以上だ。

しかも捕獲頭数は不安定。
1ヶ月でゼロのこともある。
「これで商売にできるわけがない」と、
ようやく冷静に気づく。


第四章 保健所という関門

立川市保健所。
窓口の女性は、静かに、しかしきっぱりと言った。

「許可のない場所で処理した肉を提供することはできません。」

 

「でも自分で獲ったんです」
「趣味で」
そう言っても、首を横に振る。

営業として出すなら、「食肉処理業」の許可が必要。
その設備条件は、まるで小さな工場レベルだ。

  • 壁と床は耐水構造

  • 照明・給排水・手洗い・消毒槽

  • 温度計・冷却庫・害虫侵入防止

  • 処理室と厨房の動線分離

小さな飲食店の裏には、そんなスペースはない。
プレハブを建てても、最低150〜300万円
補助金を申請しても、すぐには通らない。
「命を扱うこと」は、想像以上に金がかかる。


第五章 税金と法の罠

ジビエを販売・提供すれば「事業所得」。
確定申告では「農林業」扱いにはならず、飲食業収入の一部になる。
つまり、所得税・住民税・消費税の課税対象。

さらに、銃所持者は「火薬類取締法」に基づく火薬類譲受許可税
保管庫更新のたびに警察署への再検査費用
弾薬を購入するたびに記録簿を提出。
車両も業務使用なら自動車税、冷凍車なら環境性能割までかかる。

一頭の鹿を合法的に店で出すために必要な手続きは、
まるで中小企業の立ち上げと同じだ。


第六章 装備と維持費、そして体の限界

冬の山は残酷だ。
気温はマイナス5℃、風は刺すように冷たい。
装備をケチると命に関わる。

  • 防寒ウェア上下:40,000円

  • 登山靴:25,000円

  • ナイフ:10,000円

  • 双眼鏡:20,000円

  • GPS機器:30,000円

  • ヘッドライト、無線機、ザック、手袋、雨具、予備電池。

全部揃えれば20万円はくだらない。
毎年メンテナンスや更新も必要。

そして、40代。
若い頃のように走れない。
筋肉痛は3日後に来る。
雪道で踏ん張る足は震える。
心臓がドクドクと音を立てる。

精神的にも削られる。
山で独り、風の音と獣の気配を感じる時間。
怖い。
そして、寂しい。

撃ったあとの静寂が、心に残る。
罪悪感、誇り、安堵、恐怖。
それらが混ざって、しばらく何も食べられない。


第七章 衛生という見えない敵

捕獲した個体にはマダニ、ノミ、ダニ、ウイルス。
SFTS、E型肝炎、トキソプラズマ、寄生虫。
1匹のマダニが命を奪うこともある。
作業後の手洗いでは落ちない感染リスク。

処理施設では、電解水・過酢酸・温湯消毒。
枝肉は1℃で24時間冷却、細菌検査、記録保存。
これが“安全なジビエ”の裏側だ。

一方、山で自家処理した肉は、
わずか1℃の温度差で菌が爆発的に繁殖する。
“新鮮”と“危険”の境界は紙一重。

料理人として、安全を犠牲にはできない。
衛生を守るというのは、ロマンを切り捨てることでもある。


第八章 経済的採算という冷酷な計算

鹿1頭を捕獲して処理・運搬・提供まで行った場合の概算。

項目コスト(円)
狩猟登録・保険16,500
銃所持更新・火薬費10,000
ガソリン・運搬3,000
処理費用5,000
冷蔵保管・電気代1,000
装備消耗費2,000
雑費(氷・袋・洗浄剤)500
合計約38,000円/頭

枝肉にして15kg取れたとしても、
1kgあたり2,500円以上の原価
こんなに苦労しても、市場仕入れとそんなに差はない。
“夢を原価計算すると現実になる”とは、まさにこのこと。


第九章 心の消耗と家族の距離

店を閉め、夜中に銃の手入れをする。
銃を磨く手と、包丁を研ぐ手が同じであることに、
どこか背徳感を覚える。

妻は言う。
「あなた、何のためにそこまでやるの?」

答えられない。
ただ、自分の料理に“嘘をつきたくない”だけだった。
だが、日曜も山。休みなし。
疲労が溜まり、肩が上がらなくなる。
目の下にクマができる。

40代という年齢は、
「体力がある」と「無理がきかない」の中間にある。
一歩間違えれば、怪我も病気も回復が遅い。
狩猟は、精神力よりも“回復力”が試される。


第十章 それでも山に行く理由

「無理だ」と何度も思った。
でも、やめられなかった。

山には、人間が忘れた“時間の流れ”がある。
音のない朝、風の通り道、獣の気配。
あの静寂の中で、
自分が料理人である意味を思い出す。

狩猟とは、暴力ではなく「対話」だ。
山と、命と、自分との。

料理はその“返事”だと思っている。
だから今日も、包丁を研ぐ。
銃ではなく、包丁で命を語るために。


終章 無理筋の中にある希望

現実を知っても、夢は消えない。
ワンオペの店でも、
自分の手で命を感じる料理を作りたい。

自分で獲れなくても、
信頼できる猟師と組めばいい。
自分で捌けなくても、
衛生管理の整った処理場と提携すればいい。
それでも“想い”は伝わる。

料理人の仕事は、命を料理すること。
そして、命をつなぐこと。

森と街の間に立つ小さな店「モリノナカ」は、
今日も包丁を握っている。
銃ではなく、火と塩と時間で。